s_a_n_s_o’s diary

公立高校のブラックな環境に耐えられず退職しました。仕事や生き方についてあれこれ悩む過程を書き残します。

ついに、教師を辞める

思えば、初めて教壇に立ったのは今から四半世紀も前。大学の教育実習だった。あのときの生徒たちの真剣な眼差し。経験のない私にも、礼儀正しく明るく元気に接してくれる彼らの姿に、こんな若者たちといつか将来の夢を語り合いたい、と強く思った。

 

二年間の講師経験ののち、晴れて新採用に。夢がいよいよ実現するんだという胸の高鳴りを抑えられないまま、田舎の小さな小さな高校に赴任した。ここでどんな出会いがあるんだろう。どんな形で生徒の夢をサポートできるだろう。古びたコンクリ二階建ての教員住宅にわずかな私物を運び込みながら、ワクワクが止まらなかった。

 

私はこの初任校で、自分の考えがいかに甘かったかということを嫌というほど思い知らされた。私自身が卒業した高校は、レベルは高くないものの一応進学校と呼ばれる学校だった。授業は黙って聞くもの。先生には敬語を使うもの。この程度の常識が通用しない学校があるなどということは私の頭に一切なかった。「荒れた学校」なんていうものはテレビドラマの中にしか存在しないものだとどこかで思っていたのだろう。あれは別の世界の誇張されたお話だと本気で考えていたように思う。それほどまでに、世間知らずだった。

 

現実は厳しい。小学校から大学までのんびりと過ごしてきた私は、自分が暴力の対象になりかねないなどという学校の現実が信じられなかった。毎日どこかで物が壊され、喧嘩が起き、誰かが泣いたり叫んだりしている。教師と生徒の間でも、一触即発の事態が頻発する。私のクラスの生徒が全員揃ったのは、結局入学式の日だけだった。まともな精神を持った子どもたちは徐々に学校に来なくなり、教員の言うことなど聞く耳を持たない生徒たちは、私たちの必死の指導も虚しく嵐のように学校中を暴れ回った。何度も保護者会が開かれ、時には夜9時10時まで話し合いが続くこともあった。同僚も疲れ果てていたが、目の前で起きていることが現実とは思えない私に至っては、今思えば一種の解離状態になっていた。自分の身体と心が完全にバラバラになっているのが分かった。そうしなければ正気を保てない、それほど学校は荒れに荒れていた。

 

問題行動の中心だった数名は、一年近く学校内外で考えられる限りの暴力、暴言、破壊行為を働き、このままでは一部の本当に勉強したい子どもたちを守れない、と職員の意見が一致し、管理職も保護者に最後通告をすることに同意した。

 

彼らが学校を去ってからも、規模こそ小さくなったものの日々の問題行動はゼロにはならず、かろうじて卒業まで残ったのはわずか三分の1の生徒だった。

 

この学校での日々は、戦いそのものだった。私が信じる人としてのあり方を、なんとか子どもたちに理解してもらおうと必死にもがいた。そのほとんどは徒労に終わった。私は教師として明らかに未熟だったし、生徒以上に傷つきやすかった。掲げた理想が高いほど、失望の大きさも計り知れなかった。

 

たかだか高校生、これからの人生でいくらでも良い方向に変わる可能性がある。でも私の人生はこの時から前に進むのをやめてしまった。進むのが怖かった。信じても裏切られる。精一杯の誠意を持って接しても冷ややかな目で見られる。ここにはとても書けないような暴言も浴びた。離任の際にもらった寄せ書きにすら、一部の生徒たちの心無い言葉が書き殴られていた。

 

この時に辞めていればよかったとつくづく思う。でも、辞められなかった。せっかく手に入れた理想の仕事を、たった一校経験しただけで諦めたくなかった。学校が変われば生徒との関係も変わるかもしれない。このままやめたらもう二度と人を信じられないかもしれない。

 

でも、変わらなかった。もちろん生徒は転勤する学校ごとに様々だった。素直な子もいれば、反抗的な子もいる。同じ生徒など当然一人もいない。変わらなかったのは、私の心だった。私はすでに、どんなに穏やかで素直な生徒でも、心から信じたり大切に思ったりできなくなっていた。いつからか私の中に何か暗くて大きな穴が開いていることに気づいた。これからはこの穴を懸命に隠して生きていくんだなとぼんやり思った。

 

そのあとも、奨学金やら親のマンションのローンやら経済的な問題でなかなか仕事を辞められなかった。一昨年ようやくお金の問題がすべて解決し、勤務校も今までで一番落ち着いていた。これからは仕事と子どもたちをもう少し好きになれるかもしれない。そんな希望を抱き始めていた矢先、私は学校に行けなくなった。突然、もう限界だと悟った。職場に向かわず当てもなく車で放浪し、海辺にたどり着いてぼんやり過ごしたりした。そんな日がしばらく続いたあと、家から出ることもできなくなった。

 

夫に車に乗せられ病院に行った。そこからの記憶は断片的だ。数ヶ月仕事を休み、さらに数ヶ月病休を取りながら通院した。徐々に回復し、復職のためのプログラムを提示されたとき、もう二度と戻りたくないとはっきり心の声が聞こえた。

 

長くて辛い道のりだった。世の中を知らない二十代の頃の挫折から、立ち直れないままトボトボと歩いた数十年だった。

 

校長先生に退職の意思を伝えると、ありがたいことに何度も引き留めていただいた。ボロボロと泣きながら励ましの言葉を聞いた。ありがとうございますと繰り返しながら、自分が戻ることは絶対にないと分かっていた。それでも校長先生の言葉は嬉しかった。

 

今、やっと人生のスタートラインについたような気がしている。自分ではないなにかのフリをして生きていた時間はあまりに長く、「人生」とも呼べない時間だった。自分の人生を生きたい。誰のためでもなく、誰かの理想を演じるのでもなく。

 

これからの人生が今まで以上に大変になる可能性は十分ある。だとしても全く構わない。「自分の人生」を生きるんだと思うだけで、もう何も怖くない。どこで生きようとどこで死のうと、「自分」として生きて死ぬなら私にとってそれ以上の幸せはない。それができるならほかには何もいらない。それが今の素直な気持ちだ。この気持ちを忘れないように、ここに書き留めておく。