s_a_n_s_o’s diary

公立高校のブラックな環境に耐えられず退職しました。仕事や生き方についてあれこれ悩む過程を書き残します。

震災を忘れてはいけない人、忘れてもいい人

今年も3月11日が過ぎていった。

私は今、鬱が悪化しないよう精神の安定を最優先して過ごしているので、罵詈雑言が飛び交うツイッターはアプリごと削除し、テレビのニュースもほとんど見ていない。時々見るのはCNN JAPAN、ラジオでBBC WORLDをごくたまに聞くぐらい。身近なニュースでも少し距離を置いて接したい。自分の精神を守るためとはいえ、世の中の苦しみ悲しみ、憤るべき不正から目を背けていることに対する後ろめたさも時々感じたりする。でもまだ私はそれと向き合うだけの体力気力を完全には回復していない。まずは健康を取り戻すことが優先だと自分を納得させている。

 

今年もきっと心ある人たちが「震災を風化させてはならない」と日本全国で声をあげていたに違いない。被災の影響からいまだに立ち直れない地域、住む場所を失った人たち。それらに共感する心がないらしい与党も、口先だけは同じ言葉を発していたかもしれない。でも私は先に書いた理由から、今年はそのいずれも見聞きしないようにして過ごしてしまった。だからどんな人たちがどんな言葉や行動であの日を振り返ったかは何も知らない。

 

私は去年の初夏に鬱病と診断され、投薬治療を受け始めた。それまでは朝4時半に起きて夜7時半に帰宅、9時過ぎには疲れ果てて眠る生活だったので、寝ている間に夢を見るということがまずなかった(見ても全く覚えていなかったのか)。眠りが浅くて困るということはほとんどなく、朝スマホのアラームが鳴るまで死んだように眠るのが普通だった。

 

それが休職に入ると、朝早く起きる必要がなくなった。どころか薬の影響で眠くてたまらず、お昼ごろまで起きられない。日中もとにかく眠い。何も考えられない。何時間でも寝られる。診察では「今は身体が睡眠を必要としているので、眠れるならそれが一番」と言われ、2ヶ月ほどただただ寝て過ごした。その後、夜中に何度も目が覚めるようになった。日中寝ているから夜目が覚めるのだと思い、できるだけ日中は寝ないようにしても、夜は必ず2時間おきくらいに目が覚める。次第にまとまった睡眠時間がとれなくなり、睡眠薬の処方が増えていった。それでも眠りの浅さは改善されず、いわゆるレム睡眠の状態が長いせいか、毎晩何度も何度も悪夢を見るようになった。

 

悪夢の内容はだいたいパターンが決まっていた。一つは仕事の夢。現実と同様、仕事が終わらないことでパニックになっている自分。もう一つは、死んだ父が出てくる夢だった。父の夢は仕事の夢以上に私を苦しめた。必死で目を覚まそうとしても目覚められず、ようやく目を開けた時には心臓がバクバクと音を立て目からは涙がこぼれていた。

 

自己愛性人格障害アルコール中毒でもあった父は、もう10年以上前に死んだ。母への暴力、子どもたちへの暴言、モラルハラスメント。定職につかず部屋にこもって自分の好きなことだけやり、借金しながら大量の菓子パンやら食材やらを買い込み、飲酒運転で事故を起こし、部屋で寝ていて呼んでも起きないくせに食事の時間に呼ばなかったとキレて母に「俺の飯はないのかブタ女」と怒鳴る男。借金取りが家まで押しかけて玄関で父に向かって近所中に聞こえる大声で怒鳴り続ける間、私は部屋の隅のソファーの上に小さくなって「これは別の世界で起きていること、私はこことは違う世界にいる」と自分に言い聞かせていた。神経をすり減らす日々が、就職して家を出るまで続いた。高校生の頃、本気で父を殺す計画を立てたこともあった。大人になって一度それを友人にポロリと話した時、実行に移さなくて本当によかったね、と言われた。確かに、実行していたら完全に私の「負け」だったと思う。

 

そんな父が、休職中の私の夢に毎晩のように出てくるようになった。うなされるなんてものじゃなく、夢の中で私は泣き叫んでいた。泣き叫んでいるはずなのに声が出ないというなおさら苦しい夢もあった。目が覚めると泣いていたり、本当に叫んでしまいその声で目覚めたりもした。あまりの恐怖に、明け方何度も夫のベッドに潜り込んだが、夫の体にしがみついても少しまどろむたびに悲鳴をあげたくなる夢が繰り返し襲ってきた。

 

この時期に書き殴っていたノートは、父への呪いの言葉で埋め尽くされている。なぜ、今?顔も思い出せないほど時間がたった今になって、まだ?仕事で目一杯だったころはこんなことはなかった。仕事を休み始めたことで、それまで仕事で埋め尽くされていた心の隙間に過去の記憶がジワジワと染み出してきたかのようだった。さらに悪いことに、大人になって完全に忘れていた辛いエピソードまでいくつも思い出すようになった。

 

この頃が一番辛かった気がする。

 

その後何ヶ月かの間に夢は徐々に形を変え、私は夢の中で父を罵り、暴力を振るい、ついには鉄の棒で刺し殺したりするようになった。それでもなかなか父は消えてくれなかった。薬の量がさらに増え、処方限度の最大量になってしばらくたって、ようやく父は消えた。今思えば、鬱の症状よりも、夢と戦っていた時間の方が辛かった気がする。

 

長々と父のことを書いたのは、3月11日とともに日本中にあふれる「風化させてはいけない」「あの日を忘れるな」という言葉が、誰に向けて発せられるものなのかが、ふと気になったからだ。

 

あんな惨たらしい出来事を、今後誰にも経験して欲しくない。そのためには経験した者が語り継がなければいけない。決して忘れてはいけない。確かにそうかもしれない。でも…

 

本当にあの悲劇の真ん中にいて、大切な人を何人も目の前で失いながら生き残った人たち、長年住んだ土地を理不尽に追い出され、かけがえのない故郷を永遠に奪われた人たちには、「忘れる自由」はないのだろうか。

 

「忘れてはいけない」と呼びかけるべき相手がいるとしたら、それはあんな風に身も心も引き裂かれる経験をした人たちではなく、悲劇を防げなかった、防ぐべき立場にいた人たちなんじゃないんだろうか。ズタズタの心を抱えて生きている人たちには、「忘れる権利」もあるんじゃないか。

 

私が抱える父の記憶が、震災の被害にあった人たちと同じだと言うつもりはない。

 

でも、私はできることなら全て忘れてしまいたかった。消したと思った記憶が蘇ってきたときの絶望感は、言葉にならない。このまま狂ってしまうのではないかと思うほど、押さえつけてきた記憶の噴出は私の心を改めて激しく傷つけた。

 

「忘れてはいけない」という言葉は誰に向かって投げかけているのか。自分たちなのか、当事者なのか。あまり考えていない人もいるかもしれない。投げかけてはいけない人たちに向かって、たとえ地獄の苦しみであっても忘れるな、語り継げ、などと安易に言ってはいけない気がする。

 

忘れまいと努力している人もたくさんいるだろう。自分が忘れてしまったら、大切な人の生きた証が消えてしまう、そんな思いで耐えている人もきっと無数にいる。

 

でも、あの日のことは、忘れたければ忘れてもいい、そう言ってはいけないだろうか。あなたは十分苦しんだ、だからもし辛すぎるのなら、少しずつ忘れていいんだよと言われて、救われる人はいないだろうか。

 

私は、忘れたかった。脳を取り出して切り刻みたいくらいに。手術で記憶を取り除けるならそうしてほしかった。

 

「忘れてはいけない」という言葉が、どうか呪いになりませんように。呼びかけるべき相手を間違いませんように。時には「忘れていいよ」と言えますように。あの日の影響を直接受けなかった日本人たち、それでも正義に燃え戦い続ける心ある人たち、どうかどうかお願いします、忘れたいのに忘れられない、忘れるなという言葉に苦しみ続ける、そういう人もいるかもしれないということを頭の片隅に置いておいてください、そんなことを思った。私にもそう言ってくれる人がいたら、私は嬉しさに泣いて泣いて、いつか泣き止むことができたかもしれない。