ついに、教師を辞める
思えば、初めて教壇に立ったのは今から四半世紀も前。大学の教育実習だった。あのときの生徒たちの真剣な眼差し。経験のない私にも、礼儀正しく明るく元気に接してくれる彼らの姿に、こんな若者たちといつか将来の夢を語り合いたい、と強く思った。
二年間の講師経験ののち、晴れて新採用に。夢がいよいよ実現するんだという胸の高鳴りを抑えられないまま、田舎の小さな小さな高校に赴任した。ここでどんな出会いがあるんだろう。どんな形で生徒の夢をサポートできるだろう。古びたコンクリ二階建ての教員住宅にわずかな私物を運び込みながら、ワクワクが止まらなかった。
私はこの初任校で、自分の考えがいかに甘かったかということを嫌というほど思い知らされた。私自身が卒業した高校は、レベルは高くないものの一応進学校と呼ばれる学校だった。授業は黙って聞くもの。先生には敬語を使うもの。この程度の常識が通用しない学校があるなどということは私の頭に一切なかった。「荒れた学校」なんていうものはテレビドラマの中にしか存在しないものだとどこかで思っていたのだろう。あれは別の世界の誇張されたお話だと本気で考えていたように思う。それほどまでに、世間知らずだった。
現実は厳しい。小学校から大学までのんびりと過ごしてきた私は、自分が暴力の対象になりかねないなどという学校の現実が信じられなかった。毎日どこかで物が壊され、喧嘩が起き、誰かが泣いたり叫んだりしている。教師と生徒の間でも、一触即発の事態が頻発する。私のクラスの生徒が全員揃ったのは、結局入学式の日だけだった。まともな精神を持った子どもたちは徐々に学校に来なくなり、教員の言うことなど聞く耳を持たない生徒たちは、私たちの必死の指導も虚しく嵐のように学校中を暴れ回った。何度も保護者会が開かれ、時には夜9時10時まで話し合いが続くこともあった。同僚も疲れ果てていたが、目の前で起きていることが現実とは思えない私に至っては、今思えば一種の解離状態になっていた。自分の身体と心が完全にバラバラになっているのが分かった。そうしなければ正気を保てない、それほど学校は荒れに荒れていた。
問題行動の中心だった数名は、一年近く学校内外で考えられる限りの暴力、暴言、破壊行為を働き、このままでは一部の本当に勉強したい子どもたちを守れない、と職員の意見が一致し、管理職も保護者に最後通告をすることに同意した。
彼らが学校を去ってからも、規模こそ小さくなったものの日々の問題行動はゼロにはならず、かろうじて卒業まで残ったのはわずか三分の1の生徒だった。
この学校での日々は、戦いそのものだった。私が信じる人としてのあり方を、なんとか子どもたちに理解してもらおうと必死にもがいた。そのほとんどは徒労に終わった。私は教師として明らかに未熟だったし、生徒以上に傷つきやすかった。掲げた理想が高いほど、失望の大きさも計り知れなかった。
たかだか高校生、これからの人生でいくらでも良い方向に変わる可能性がある。でも私の人生はこの時から前に進むのをやめてしまった。進むのが怖かった。信じても裏切られる。精一杯の誠意を持って接しても冷ややかな目で見られる。ここにはとても書けないような暴言も浴びた。離任の際にもらった寄せ書きにすら、一部の生徒たちの心無い言葉が書き殴られていた。
この時に辞めていればよかったとつくづく思う。でも、辞められなかった。せっかく手に入れた理想の仕事を、たった一校経験しただけで諦めたくなかった。学校が変われば生徒との関係も変わるかもしれない。このままやめたらもう二度と人を信じられないかもしれない。
でも、変わらなかった。もちろん生徒は転勤する学校ごとに様々だった。素直な子もいれば、反抗的な子もいる。同じ生徒など当然一人もいない。変わらなかったのは、私の心だった。私はすでに、どんなに穏やかで素直な生徒でも、心から信じたり大切に思ったりできなくなっていた。いつからか私の中に何か暗くて大きな穴が開いていることに気づいた。これからはこの穴を懸命に隠して生きていくんだなとぼんやり思った。
そのあとも、奨学金やら親のマンションのローンやら経済的な問題でなかなか仕事を辞められなかった。一昨年ようやくお金の問題がすべて解決し、勤務校も今までで一番落ち着いていた。これからは仕事と子どもたちをもう少し好きになれるかもしれない。そんな希望を抱き始めていた矢先、私は学校に行けなくなった。突然、もう限界だと悟った。職場に向かわず当てもなく車で放浪し、海辺にたどり着いてぼんやり過ごしたりした。そんな日がしばらく続いたあと、家から出ることもできなくなった。
夫に車に乗せられ病院に行った。そこからの記憶は断片的だ。数ヶ月仕事を休み、さらに数ヶ月病休を取りながら通院した。徐々に回復し、復職のためのプログラムを提示されたとき、もう二度と戻りたくないとはっきり心の声が聞こえた。
長くて辛い道のりだった。世の中を知らない二十代の頃の挫折から、立ち直れないままトボトボと歩いた数十年だった。
校長先生に退職の意思を伝えると、ありがたいことに何度も引き留めていただいた。ボロボロと泣きながら励ましの言葉を聞いた。ありがとうございますと繰り返しながら、自分が戻ることは絶対にないと分かっていた。それでも校長先生の言葉は嬉しかった。
今、やっと人生のスタートラインについたような気がしている。自分ではないなにかのフリをして生きていた時間はあまりに長く、「人生」とも呼べない時間だった。自分の人生を生きたい。誰のためでもなく、誰かの理想を演じるのでもなく。
これからの人生が今まで以上に大変になる可能性は十分ある。だとしても全く構わない。「自分の人生」を生きるんだと思うだけで、もう何も怖くない。どこで生きようとどこで死のうと、「自分」として生きて死ぬなら私にとってそれ以上の幸せはない。それができるならほかには何もいらない。それが今の素直な気持ちだ。この気持ちを忘れないように、ここに書き留めておく。
震災を忘れてはいけない人、忘れてもいい人
今年も3月11日が過ぎていった。
私は今、鬱が悪化しないよう精神の安定を最優先して過ごしているので、罵詈雑言が飛び交うツイッターはアプリごと削除し、テレビのニュースもほとんど見ていない。時々見るのはCNN JAPAN、ラジオでBBC WORLDをごくたまに聞くぐらい。身近なニュースでも少し距離を置いて接したい。自分の精神を守るためとはいえ、世の中の苦しみ悲しみ、憤るべき不正から目を背けていることに対する後ろめたさも時々感じたりする。でもまだ私はそれと向き合うだけの体力気力を完全には回復していない。まずは健康を取り戻すことが優先だと自分を納得させている。
今年もきっと心ある人たちが「震災を風化させてはならない」と日本全国で声をあげていたに違いない。被災の影響からいまだに立ち直れない地域、住む場所を失った人たち。それらに共感する心がないらしい与党も、口先だけは同じ言葉を発していたかもしれない。でも私は先に書いた理由から、今年はそのいずれも見聞きしないようにして過ごしてしまった。だからどんな人たちがどんな言葉や行動であの日を振り返ったかは何も知らない。
私は去年の初夏に鬱病と診断され、投薬治療を受け始めた。それまでは朝4時半に起きて夜7時半に帰宅、9時過ぎには疲れ果てて眠る生活だったので、寝ている間に夢を見るということがまずなかった(見ても全く覚えていなかったのか)。眠りが浅くて困るということはほとんどなく、朝スマホのアラームが鳴るまで死んだように眠るのが普通だった。
それが休職に入ると、朝早く起きる必要がなくなった。どころか薬の影響で眠くてたまらず、お昼ごろまで起きられない。日中もとにかく眠い。何も考えられない。何時間でも寝られる。診察では「今は身体が睡眠を必要としているので、眠れるならそれが一番」と言われ、2ヶ月ほどただただ寝て過ごした。その後、夜中に何度も目が覚めるようになった。日中寝ているから夜目が覚めるのだと思い、できるだけ日中は寝ないようにしても、夜は必ず2時間おきくらいに目が覚める。次第にまとまった睡眠時間がとれなくなり、睡眠薬の処方が増えていった。それでも眠りの浅さは改善されず、いわゆるレム睡眠の状態が長いせいか、毎晩何度も何度も悪夢を見るようになった。
悪夢の内容はだいたいパターンが決まっていた。一つは仕事の夢。現実と同様、仕事が終わらないことでパニックになっている自分。もう一つは、死んだ父が出てくる夢だった。父の夢は仕事の夢以上に私を苦しめた。必死で目を覚まそうとしても目覚められず、ようやく目を開けた時には心臓がバクバクと音を立て目からは涙がこぼれていた。
自己愛性人格障害でアルコール中毒でもあった父は、もう10年以上前に死んだ。母への暴力、子どもたちへの暴言、モラルハラスメント。定職につかず部屋にこもって自分の好きなことだけやり、借金しながら大量の菓子パンやら食材やらを買い込み、飲酒運転で事故を起こし、部屋で寝ていて呼んでも起きないくせに食事の時間に呼ばなかったとキレて母に「俺の飯はないのかブタ女」と怒鳴る男。借金取りが家まで押しかけて玄関で父に向かって近所中に聞こえる大声で怒鳴り続ける間、私は部屋の隅のソファーの上に小さくなって「これは別の世界で起きていること、私はこことは違う世界にいる」と自分に言い聞かせていた。神経をすり減らす日々が、就職して家を出るまで続いた。高校生の頃、本気で父を殺す計画を立てたこともあった。大人になって一度それを友人にポロリと話した時、実行に移さなくて本当によかったね、と言われた。確かに、実行していたら完全に私の「負け」だったと思う。
そんな父が、休職中の私の夢に毎晩のように出てくるようになった。うなされるなんてものじゃなく、夢の中で私は泣き叫んでいた。泣き叫んでいるはずなのに声が出ないというなおさら苦しい夢もあった。目が覚めると泣いていたり、本当に叫んでしまいその声で目覚めたりもした。あまりの恐怖に、明け方何度も夫のベッドに潜り込んだが、夫の体にしがみついても少しまどろむたびに悲鳴をあげたくなる夢が繰り返し襲ってきた。
この時期に書き殴っていたノートは、父への呪いの言葉で埋め尽くされている。なぜ、今?顔も思い出せないほど時間がたった今になって、まだ?仕事で目一杯だったころはこんなことはなかった。仕事を休み始めたことで、それまで仕事で埋め尽くされていた心の隙間に過去の記憶がジワジワと染み出してきたかのようだった。さらに悪いことに、大人になって完全に忘れていた辛いエピソードまでいくつも思い出すようになった。
この頃が一番辛かった気がする。
その後何ヶ月かの間に夢は徐々に形を変え、私は夢の中で父を罵り、暴力を振るい、ついには鉄の棒で刺し殺したりするようになった。それでもなかなか父は消えてくれなかった。薬の量がさらに増え、処方限度の最大量になってしばらくたって、ようやく父は消えた。今思えば、鬱の症状よりも、夢と戦っていた時間の方が辛かった気がする。
長々と父のことを書いたのは、3月11日とともに日本中にあふれる「風化させてはいけない」「あの日を忘れるな」という言葉が、誰に向けて発せられるものなのかが、ふと気になったからだ。
あんな惨たらしい出来事を、今後誰にも経験して欲しくない。そのためには経験した者が語り継がなければいけない。決して忘れてはいけない。確かにそうかもしれない。でも…
本当にあの悲劇の真ん中にいて、大切な人を何人も目の前で失いながら生き残った人たち、長年住んだ土地を理不尽に追い出され、かけがえのない故郷を永遠に奪われた人たちには、「忘れる自由」はないのだろうか。
「忘れてはいけない」と呼びかけるべき相手がいるとしたら、それはあんな風に身も心も引き裂かれる経験をした人たちではなく、悲劇を防げなかった、防ぐべき立場にいた人たちなんじゃないんだろうか。ズタズタの心を抱えて生きている人たちには、「忘れる権利」もあるんじゃないか。
私が抱える父の記憶が、震災の被害にあった人たちと同じだと言うつもりはない。
でも、私はできることなら全て忘れてしまいたかった。消したと思った記憶が蘇ってきたときの絶望感は、言葉にならない。このまま狂ってしまうのではないかと思うほど、押さえつけてきた記憶の噴出は私の心を改めて激しく傷つけた。
「忘れてはいけない」という言葉は誰に向かって投げかけているのか。自分たちなのか、当事者なのか。あまり考えていない人もいるかもしれない。投げかけてはいけない人たちに向かって、たとえ地獄の苦しみであっても忘れるな、語り継げ、などと安易に言ってはいけない気がする。
忘れまいと努力している人もたくさんいるだろう。自分が忘れてしまったら、大切な人の生きた証が消えてしまう、そんな思いで耐えている人もきっと無数にいる。
でも、あの日のことは、忘れたければ忘れてもいい、そう言ってはいけないだろうか。あなたは十分苦しんだ、だからもし辛すぎるのなら、少しずつ忘れていいんだよと言われて、救われる人はいないだろうか。
私は、忘れたかった。脳を取り出して切り刻みたいくらいに。手術で記憶を取り除けるならそうしてほしかった。
「忘れてはいけない」という言葉が、どうか呪いになりませんように。呼びかけるべき相手を間違いませんように。時には「忘れていいよ」と言えますように。あの日の影響を直接受けなかった日本人たち、それでも正義に燃え戦い続ける心ある人たち、どうかどうかお願いします、忘れたいのに忘れられない、忘れるなという言葉に苦しみ続ける、そういう人もいるかもしれないということを頭の片隅に置いておいてください、そんなことを思った。私にもそう言ってくれる人がいたら、私は嬉しさに泣いて泣いて、いつか泣き止むことができたかもしれない。
アートの希望 「ザ・ウォーキング・デッド」の音楽教師ルークについて
私の大好きな米テレビドラマ「ザ・ウォーキング・デッド」。
世界中で大人気のこのドラマ、つい最近シーズン10後半がスタートしたところ。
このドラマの見所は、リアルすぎるゾンビたち(まあ誰もリアルなゾンビなんて知らないはずなんだけど)、そしてシーズンごとに次から次へと出てきて(その大多数が死ぬ)顔と名前が覚えきれない登場人物たち。どんなにあっさり死んでしまうキャラクターにもそれぞれ名前と背景が与えられていて(たまにそれすらないかわいそうなキャラもいるけど)、その一人ひとりの掛け替えのない物語がこのドラマをただのグロテスクな娯楽作品以上のものにしているんだろうと思う。
それら膨大な数の登場人物の中で、比較的最近グループに加わったルークという人物がいる。(ウィキペディアによるとシーズン9からの登場。もはや記憶だけでは何シーズンに誰が出てきたかなど思い出せない。名前も今ググって知った。)
この人物は元音楽教師という設定。元、というのは世界がゾンビまみれになる前のノーマルな世界で音楽を教えていたということ。容貌は冴えない中年男性。背も高くなく、黒髪の天然パーマ、ちょっと太り気味。ゾンビを倒す腕もミショーンやダリルに比べたら凡人レベル。このドラマの世界でははっきり言って「秒殺」タイプ。この人、絶対すぐに死ぬ…今死ぬのか…もうそろそろやばいのでは…と思いながら(あまり思い入れもないけど)見ていた。
ところがこのルーク、意外と死なない。武器を扱う腕も心許ないのに、なんとかピンチをすり抜けたり助けられたり。秒殺キャラにありがちな「ややお調子者」「基本ふざけてる」人物にも関わらず、次第に「死にそうで死なないしぶといキャラ」「弱そうに見えて案外タフなキャラ」として定着しつつある。もっと言えば、これでもかこれでもかと(血も涙もない脚本家により)絶体絶命の事態に遭遇し続けるメンバーたちの中で、唯一明るさを失わない貴重なキャラになってきている気がする。メンバーの中には元動物園の飼育員エゼキエルのように、あえて人々のために笑顔を絶やさなかった人物もいるけれど、ルークの場合は誰のためでもなく、自分が楽しいからジョークを飛ばす、自分が楽しいから歌を口ずさむ、自分を楽しませるユーモアが次から次へと口をついて出てくる、というところが他の誰とも似ていない。元教師だけあって、ジュディスのような子どもを笑顔にさせる技にも長けている。周りがピリピリと張り詰めている時でもその姿勢は全く変わらない。ゾンビたちとの戦いの最中でも、一応真剣な顔で刺したり叩き割ったりしているけど他のメンバーと違って「生きるか死ぬか」という悲壮感がない。まるで大人が本気でサバイバルゲームに興じているときのような、顔は真剣そのものだけど自分が死ぬ可能性のあるゲームだとはこれっぽっちも思っていない、そんな風にも見える。
私は回を重ねてもルークが死なないのが不思議でならなかった。こんな地味キャラ、脚本家はどうしてあっさり台本から消してしまわなかったのだろう?ひょっとしたら何か意味があるのかな?元音楽教師の彼は、荒れ果てた図書館で楽譜を見つけると子どものように目を輝かせ「これだよ、これ!」とはしゃぎまくる。町から町へ移動する際の危険な道中でもラフマニノフの一節を口笛で奏でてジュディスにそれは何?と聞かれたりする。すでに楽器もオーケストラも存在しない(ギターやピアノぐらいはあるのだろうか)世界で、音楽を奏でるのは古いレコードと蓄音器、あとはルークのような人物の頭の中で流れる「記憶の中の音楽」だけなのに。
彼はその「記憶の中の音楽」を忘れていない。生きることが死ぬことよりも辛い世界になってすでに何十年も経つのに、彼の頭の中にはいつも美しい交響曲が響き渡っているらしい。時に夢見るように目を閉じてタクトを振る彼は、ひょっとしたら「アート」の象徴なのかもしれない。この世界で彼が生き続ける理由。脚本家たちが彼を生かし続ける理由。それが「アートは死なない」という意味だとしたら…彼はこの長い長い物語の最後まで絶対に死ぬことはないだろう。
ルークの語源は「光り輝くもの」じゃなかったっけ。かの有名なジェダイの騎士も同じ名前。ぱっと見は冴えないお調子者の彼の中にも、ひょっとしたらこの世界の希望の光が詰まっているのかもしれない。
来週月曜はシーズン10のエピソード12が配信される。ルークも変わらず飄々とゾンビを倒し続けるはずだ。とか言って、次回であっさりサヨウナラだったらどうしよう。この世の良きものがまた一つ失われたということになるのだろうか。すでに私の中ではリックよりミショーンより死んで欲しくないキャラになりつつある。ダリルは別だけど。(もし彼が死ぬエピソードなんか書いたら世界中から非難と脅迫が殺到するだろうから脚本家は誰も彼を殺さないだろう。ダリルの命は世界中のファンによって守られているので100%安心なのだ。多分。)
一人ハイク
一昨日、近くの山まで歩きに行った。以前から登山口の看板を目にしていたので、いつか登ってみたいと思っていた。
健康な体が欲しくて、何でもいいから体を丈夫にするためにできそうなことを手当たり次第に試しており、ウォーキングも時々している。時々ウォーキングするくらいで健康な体が手に入るという甘い考えが本気のウォーカーやハイカーからするとナメくさっているのかもしれないが。
とにかく、せっかく天気がいいので手持ちの服から精一杯アウトドアっぽいものを選んで着込み、バックパックに何冊か本を詰めて、いざ鏡を見てみるととても近所に歩きにいく人とは思えない重装備になっていて引いた。恥ずかしい。こういう時どういう格好がベストなのかもスーパーインドア派の私にはまったく分からず、結果的に訳の分からない格好(ニット帽までかぶってた)になってしまった。
ニット帽があまりにも山登り的な雰囲気を醸し出していたのでそれだけは脱いでバックパックに入れ、あとスマホも家に置いて出かけた。
スマホを持たない、というのは今日のチャレンジでもあった。ここ最近体重管理のために「あすけん」のアプリを使っていて、何か食べるごとに一々細かく記録するのと、家事や勉強の効率を見直すため「aTimelogger」でこれも一々作業開始と終了時間の入力をし続けていた。おかげで見て見ぬふりをしていた自分の摂取カロリーも分かった(突きつけられた)し、ときに自分が10分近く歯を磨いていることも分かったりと非常に役には立ったのだが、なにせ一日に入力する回数が半端ない。一日くらいスマホに管理されない時間を過ごしたくなって、思い切ってスマホを持たずに出かけることにしたのだ。なぜそれが人生初の一人ハイクのタイミングなのか、ひょっとしてめちゃくちゃ後悔するのでは、とちらっと思ったが、もう今日は何があろうと自力で解決するのだ!と腹を括って家を出た。
家を出るまでの話でこんなに書いてしまったが、結果的にスマホは全然なくてよかった。正直、へんなキノコとか綺麗な小川とか竹林の木漏れ日とかを目にするたびに、あースマホで写真撮りたいわー、とは思ったのだが、そこはむしろ目に焼き付けて、体で感じる方が大事だ!と急にナチュラリストになって楽しんだ。
ちなみに発見したキノコはこちら。
http://asahikawa-kinoko.sakura.ne.jp/photo_gallery/62benityawantake.htm
写真は前述の通り撮らなかったので、帰宅後に「キノコ 赤」で検索したらワンアップキノコなどに混じってやっと出てきた。シロキツネノサカズキモドキというメルヘンな名前らしいが、正直私はこの造形に恐怖すら覚えた。キノコ類の造形にはなにか私の中のゾワゾワ感を引き出すものがある。とか言いながら実は触ってみた。そっと指でこのお碗状の部分をつついてみると、一気に白い煙のような胞子が吹き出してきた(その時の私の飛び退きっぷりは人が見てたらかなり恥ずかしかったと思う)。「マスクをつけていなければ5分と持たない」というナウシカの言葉が頭をよぎった。けどなんともなかった。
その後、登山道を黙々と登って行ったのだが、登山道はおろか麓の集落ですら人の気配が一切なく、国道から山に向かって国道に戻るまで誰にも出会わなかった。集落の人に会ったらどう挨拶するかシミュレーションまでしていたのに無駄に終わった。
ちなみにこの山は山と言っても登り切るのに40分程度の小山なので私みたいななんちゃってハイカーにはぴったりだった。傾斜もひたすらなだらかで、鳥の声や風の音、小川のせせらぎ以外何も聞こえないという(途中何回か「ひょっとして異界…」という不安がよぎるほどの)静けさだった。ただこの登山道は事前に地図で見た限りでは、登ってもなにがあるわけでもなく行き止まりで、向こうの麓に降りられるとか展望台的なものもないようだった。道から外れたところに神社があるようだったが、私のようなものが、スマホも持たずに道から外れたが最後、人様(=捜索隊)のお世話になるのは目に見えているので神社にアプローチするのは諦めていた。
ただただ登り、ひたすら登り、少し開けたところに出たのでゴールかな?と思ったらその先にまだかすかに道らしいものが続いている。せっかくなら道の終わりまで行きたい。シダや背の高い枯れ草で少しずつ歩きにくくなる道をとにかく進む。このころには、山の食物連鎖の頂点にいる黒or茶色の獣と遭遇しかねないという不安が広がり始めていた。体が黄色くて赤いチョッキを着てハチミツをなめていてくれればいいけどそんなファンタジーな生き物ではないことは充分わかっている。どこで引き返そう…と考えていたそのとき、ついに道端にタメ糞とおぼしき塊と薬莢を見つけて帰路につくことにした(ややダッシュで)。途中何度振り返っただろうか。国道が見えた時の安堵感は忘れられない。
この山、人もいなくて落ち着くし、傾斜がとにかくなだらかそのもので1回登っただけで大好きになったのだが、山に慣れた人でも、たとえよく知る山でも危険な目にあうという話はしょっちゅう耳にする。特に今年は目撃例も多いらしい。もう一人ハイクはするまい。人様にも迷惑をかける。
二度と一人で行けないとしても、この日は山の神様が私を生きて帰してくれたことに感謝し、もう少しちゃんとした山の経験を積みたいと思った。スマホ断ちのお陰で自然を充分堪能できたが、次からは電源は切ってでも持って行った方がいいかもしれない。
初めて知った…フォントの会社 ダイナコムウェア
休職期間も、はや9ヶ月目。
心身の好調・不調の波を経ながら今後どうやって食べて行こうか考える日々。
考えていても始まらないので何か行動しようと思い、
DHCのオンライン翻訳講座を受講中。
私が選んだのは基礎の基礎レベルなので、文法系、和訳系の問題は楽勝。
というかちょっと物足りない。
でも各ステップの後半には翻訳素人の私が全く知らなかった翻訳の基礎知識や
翻訳者が使用するツール等の情報が入っているので、へー、と思いながら読む。
そこが一番面白い。
今日も勉強するか、と思ってPCの前に座り、
その前に何気なくLifehacker日本版をのぞいていたら、
「金剛黒体」という文字(スポンサー広告)が目に入った。
その下には、「液晶表示に最適なフォント」というコピーと
「ダイナコムウェア株式会社」という企業名。
どうやらこの会社が作った新しいフォントの宣伝らしいけど…
フォントの宣伝?フォントも宣伝して売るの?(知らなかった…)
見慣れないフォント名と、
「フォントを作る会社」という未知の世界に興味が湧いてクリック。
案の定、そこは未知の世界。
ダイナコムウェアという会社は、新しいフォントを作り、
さらにそれを多言語展開するという珍しい(私が知らないだけ?)会社らしい。
特設ページには新しく開発されたという「金剛黒体」(こんごうこくたい)
の紹介が、洗練された動画と共に美しく展開されている。
もうそれだけで、フォント好きの私の胸は高鳴りっぱなし。
HPの「ブランドについて」には以下のメッセージが。
DynaFontは、常に創造し続けるという精神で、先進のフォントテクノロジーの発展に尽力すると共に、文字の美しさを伝えて参ります。 また、デジタル時代の消費者に多様な選択肢を提供し、フォントがコミュニケーションにより温かみを与える存在になるよう、これからも発展に寄与して参ります。
そうか…世の中にはこういう形で世の中に貢献する仕事もあるのか…
目から鱗…
この会社が開発したフォントはグッドデザイン賞をはじめ、
様々な受賞歴があるらしい。
そうか、フォントもデザインの一つなのか…
その開発に日々情熱を傾けている方々がいることを今日初めて知った。
この会社のHPは見ていて飽きない。
「フォントっていいね!」
「教育・公共系では外字対応が必須!」
「フォントの魅力でUIは進化する」
「中国簡体字(政府公認)」
「この書体、なんだ!?」
などなど、面白そうな記事が満載。
「多言語」のページには、この会社が手掛けている言語の一覧が載っている。
・東アジアフォントセット
・欧州フォントセット
(英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、イタリア語、ポルトガル語、
インドネシア語、スェーデン語、その他たくさん)
・特殊なレイアウトを必要とする言語用のレイアウトエンジン
これを一つ一つ、フォントデザイナー?の方が作っているということか。
その作業工程を想像すると、なんだか頭がクラクラする。
すごい。
いや、ゴシック体も明朝体も、最初に作った人たちの労力は大変なものだったと思う。
でもこうして見やすさ、美しさを追求して、
日々フォントの開発をしている会社があるなんて。(え、常識?)
確かに、印刷物用、PC用、スマホ用など、
使用するフォントは媒体によって最適なものがあるのだろうな。
あとは商品イメージ、ブランドイメージなどに合わせてフォントを使い分けるのも
デザイナーさんの腕の見せ所なのだろうし。
件の「金剛黒体」も、その説明を読むと開発者の方々の熱い思いが伝わってくる。
王者の名にふさわしい存在
「金剛黒体」は、ダイヤモンドの王様と呼ばれるカーボネードのように光輝いた新しいスタイルのゴシック体です。液晶に適したフォントとして、長い開発期間を経て丹念に磨き上げられた末に誕生した「金剛黒体」は、シンプルで洗練されたストロークに従来の書体より懐を広げたことで、はっきりとした構造で優れた視認性を有しており、文字全体に明るく澄みきったような空気感に溢れています。ゴシック特有の硬質さにモダンさを加えることで、剛と柔を兼ね備えたストロークは、いつまでも色あせることなく、ブラックダイヤモンドのように永遠に輝き続けることでしょう。
この後にも、「デザインの特徴」「書体見本」「筆画の特徴」「活用例」と、
美しいアニメーションを駆使したフォントの説明が続く。
一つのフォントにこれだけのボリュームの説明がついているのを見るだけでも、
開発に注がれた労力が想像できる。
あったこともない方々への畏敬の念で胸がいっぱい。
すごい。ものを作る人って本当にすごい。
私もこんな風に熱く語れるものづくりが出来たら…
なんの知識もスキルもない私だけど、フォントの勉強をしてみたくなった。
休職中でも休めない、休まないバカ
今朝、眼が覚めると風邪のようなだるさを覚える。
熱っぽいので冷えピタを貼って水枕して、そのまま昼までベッドから動けず。
心身を鍛えようと始めた水シャワーがまずかったのか。寒くてもエアコンをあまり使わず厚着と立ち作業を心がけて体力を取り戻そうとしたのが裏目にでたか。バカなのか私は。
ふと、こんな風に昼まで横になっているのはいつぶりだろうと思う。あれ、全然思い出せない。休職中なんだからいくらでも寝てられたはずなのに。
…考えてみると、仕事をしてた頃は休日になると早起きしなくていいのが何より嬉しかった。勤務日はだいたい朝4時から5時に起きて7時には出勤してた。誰もいないオフィスの鍵を開けるのはだいたい私の仕事。勤務開始の8時半までにたまった仕事をどれだけ片付けられるか、毎日の貴重な一時間半のために早起きは必須だった。
今の私はどうか?
さすがに4時起きはしないが7時には起きて家事を始める。午前中に洗い物、掃除、洗濯、片付け、観葉植物の世話を終わらせて昼からは今後のための勉強をしたり調べ物、書き物をして、3時ごろからは夕食の下準備を始める。米を研ぎ、野菜を切る。煮物の日は早めに準備。風呂を洗っていつでも汲めるようにして、食器を用意して、この頃になるとどっと疲れが出てくる。仕事をしていた頃と同じだ。勤務時間終了の5時ぐらい。でもそこからようやく自分の仕事に集中できる時間に入る。頭は疲労して集中どころではないけれど、5時以降が勝負。ここからセコムがかかる時間までに出来るだけ片付けておかないと仕事が回らない。
…今、休職中の身としては身体を休めるのが最重要課題のはずなのに、身体がそこそこ動くようになってからは朝から晩まで家事や勉強をしている。全然休んでいない。それどころか、土日も関係ないため「休日」の概念もなくなっていた。つまり週7日、フルに働いているのと同じこと。
仕事をしていた頃と考え方が変わってない。休んでる場合じゃない、休憩してる暇があったらあれとこれを終わらせなきゃ、今週も休日出勤しなきゃ終わらない…
誰に命令されたわけでもないのに、休職中でありながら1日の中に「休憩時間を設ける」って発想もなかった。しかも、土日も関係なし。私、また同じことをしてる…
今日の体調不良がなかったら気づかなかった。ダメだ、これじゃ。全然ダメだ。復職できてもまた同じことの繰り返しになるのが目に見えてる。。
最近読んだちきりんさんの「自分の時間を取り戻そう」という本。これでもか、というくらい「生産性を高めよう」というフレーズが出てくる。自分の時間を確保したいなら、生産性を上げよ。長時間残業をしたって生産性は上がらない。時間当たりの生産性の向上を意識しない人は、どれだけ忙しさに不満を漏らそうと忙しさがなくなることはない。どころか、これからの社会では不要の人材とみなされるだけ。裏を返せば、休む時間、自分の時間をしっかり確保した上で、残りの時間でいかに生産性を上げて自分の仕事を終わらせるか。その能力を身につけることを目指さなければ自分時間なんて永久に手に入らない、と。
休職・服薬しながら、一日中動いて疲弊している自分は一体なにをしてるのか。今日はとうとう体調まで崩してしまった。クレイジーとしか言いようがない。
ちきりんさんには「お前みたいなのためにこの本を書いてやったのに」と言われそうだ。やめよう。この生活。休め。動くにしても、休憩くらいしろ。家にいるからって生産性を無視して働いてるあなたは何も学んでません。
というわけで今日は休んだ…と言いたいところだけど、昼から起きて結局全ての家事を終わらせた。いや、でも半日しかないと思ったから半日で全部終わったぞ。生産性、高まってる…こういうことか…
2019/11/16ブログ開設
休職してから半年。
本も読めずテレビも見たくなく、
外出はおろか、部屋の中、トイレまで歩くのも辛かった最初の数ヶ月。
あの頃は本当に自分なんか消えてしまえばいいと思っていた。
自分だけでなく世界も終わってしまえばいいと思った。
今、まだ進む道が見えず迷っているけれど、
ようやく大好きだった読書を再開したり
自転車で近所を一回りできるまでになった。
病院の先生からも
「そろそろ何かやりたいことがあれば始めてもいいかもしれませんよ」
と言っていただいた。
今日読んだ本、phaさんの「ゆるくても続く知の整理術」。
その中で、「本を読んだらできるだけ読書メモをとるようにしよう」
「アウトプットをすることで、より効率的に勉強した内容が身につくようになる」
「『軽いアウトプット』のツールとしてとても向いているのが、
インターネット、つまりブログやツイッターだ」
とあった。
せっかく読んだ本から、何か学んで自分がより良く生きられるように使いたい。
今日読んだこの本のアドバイスに素直に従って、まずはブログを始めてみる。
本からでも人からでも、素直に学ぶ姿勢で生活していきたい。
にしても付箋つけすぎ(笑)。